昭和43年7月14日 夜の御理解
昔から、言われておることの中に、「良薬口に苦し」ということを言われます、良いお薬は口には苦いというのですね、確かにそうだと思うんですね、私共が「心を豊かに」とか、「心を大きく」と、願わん者はありません、自分はもう本当に心の小さいことだと、こんな事がこんな事が自分の心の中へあばからない、ね、このくらいな事が腹が立つ、っとにもっと心が豊かに大きくなったら良かろうと思うのですけれども、あ~どっこい心が細いからそれを自分の心の中に、はばからせることが出来んのです、でも信心さしてもらって、心が豊かに肥えるためには、どうしても良い土地を作るためには、やはりあのまち肥と言ったような、肥をして、しばらく時期がたって初めてそこが良い物が生まっ、育つところの良い土地が出来るように、自分の心にもそれである、それにはどうしても、お~、「良薬は口に苦し」という、その良を分からしてもらって、本当に嫌だなぁ~と、困ったなぁと、いったようなその困ったとか嫌だと思うそれこそ心の根肥やしと思うて、金光大神様金光大神様と神様にお縋りしながら、それを心の中に受けていく、辛抱していく稽古をすることなんです信心とは、只今私御神前に出らしてもらいましたら、「悪縁は良縁」ということを頂く、ね、もう例えばあの、もう夫婦の仲でも、「もう私共のばっかりいよいよ悪縁じゃろう」と、「もう夫婦喧嘩ばっかりしとる」と言ったようなことを良く言う人があるけれども、実を言うたらそういう悪縁と思われる縁こそ、本当言うたら良い縁になるのです、ね、それがいよいよ人間を豊かにする、本当の将来おかげの頂けれる、ものなんです、はじめから良縁に恵まれるなどと言うけれどもですね、はじめから良かばぁっかりのとこじゃ人間は育ち、良いにんっ、心は育ちません、ね、その悪縁と思われるような縁にむすっ、例えば結ばれる、こりゃぁ夫婦だけのことじゃありませんけれども、師弟の関係でもそうである、ね、何の関係でも、そういう例えば悪縁と思われるようなものが、心の豊かさ心の大きさというものによって、え~それが大きなおかげを頂く元になる。
昨日から、あの古賀先生が来ておりまして、今晩夕食すましてから、丁度伊万里から竹内先生方が参ってきましたから、一緒に自動車で送ってもらって帰ったんですけれども、本当にあの、まあ私と古賀先生との間に生まれる一つの師弟の縁というものは決して良い縁じゃなかったと思うですね、もうどっちかっち言うなら悪縁です、「どうして先生あんな人を置きなさるですか」と皆が忠告してくれるほどじゃったです、ね、向こうにはどうか知らないけれども、私にとってはしかし大変な良縁であった、ね、第一その竹内先生あたりでも、やはりあの古賀先生がここに御縁を頂いておったおかげで御神縁を頂いた方らしいです、熊本あたりからああして沢山参ってくるのも結局は古賀先生がその縁の元を作ったのです、してみるとなるほど悪縁は良縁だなぁとこう思うですね、ね、だからそこんところを私共が分からしてもらって、ね、ですから、それをわざわざなら悪縁を求めてことはいらん、ここに結ばれるということになったらですね、「どうぞ私をここに弟子にして下さい」と「いやぁあんたのような病人は手が入るから、私もじゃお断りいたします」と言うのじゃなくて、そして求められてきたのですからそれを与えただけのこと、ここに縁が結ばれたのであるから、その縁をいよいよ私共が良縁にしていくために、それを有り難く受けて行くところに、思いもかけないおかげがそこには沢山ある、ね、「良薬は口に苦し」と、確かにこりゃ私は本当の言葉だとこう思うですね、ね、お薬の中に、甘い美味しいといったようなものがあるはずがありません、ね、苦いけれどもそれが、その病気に効いておる、健康を約束するようにね、私共はまずその、御理解の五十節に、「とかくに信心は地を肥やせ」と、ね、いうようにこう言うておられますが、常、それには、「常平生からの信心が肝要じゃ、地が肥えておれば肥をせんでもひとりでにものが出来るようなもので、ものぞ」というようにありますように、いわゆるちょっとこのまち肥がしておる、だからいよいよの時にはもう肥をせんでもひとりでに物が出来るようなものじゃと、ね、私共が地を肥やす、肥やす中には私共の嫌な事、嫌で嫌でたまらんようなこと、ね、また馬鹿らしい事損になる事、けれどもわざわざ求めて損しなくてもいい、けれども損しないければならないような事が起ってきたら、それを一つ合掌して、神様にお縋りして、それをこれをまち肥だと、これを根肥やしだと思うて心を肥やしていく材料にしていかなきゃならん、そこから豊かな心が生まれる、その豊かな心に良いおかげが育たないはずがないのですからね。 どうぞ。